【編集長ブログ】「さかなクン」のような人が溢れる社会

可愛らしい表紙の本だからと言って、侮ることなかれ。さかなクンが書いた『さかなクンの一魚一会』は最近読んだ本の中でも、人に話したくなる本だった。事実、読み終えて3日しか経っていないのに、会ったすべての人にこの本の話をしている。

可愛らしい表紙の本だからと言って、侮ることなかれ。さかなクンが書いた『さかなクンの一魚一会』は最近読んだ本の中でも、人に話したくなる本だった。事実、読み終えて3日しか経っていないのに、会ったすべての人にこの本の話をしている。

これはさかなクンの自叙伝である。元々トラックが大好きだったさかなクンは一人で、トラックの絵ばかりを描いていた。それから書く対象は妖怪に変わっていくのだが、ある日、学校で、同級生からさかなクンのノートにいたずら書きをされる。これはちょっとしたいじめだったかもしれない。しかし、いたずら書きを見たさかなクンは、その躍動感ある絵にすっかり魅了される。「ここに描かれている生き物はなんだろう」。早速、図書館で図鑑で調べ始め、ようやくその絵が「タコ」であることを知る。

たこ焼きのタコはこんな生き物だったのか。それからのさかなクンは、お魚屋さん通いが始まり、やがてそれが魚全体への興味へと広がっていくのだ。

毎日のように魚屋さんに通い、授業中にはひたすら魚の絵を描く。休日は水族館に行くのが、何よりの楽しみで、そこから釣りなどにも出会う。こうして、魚三昧の生活をしていたさかなクンは、「将来も、毎日、魚を見ながら、魚の絵を描いていたいな」と夢見る。

そんなさかなクンは「子どもの頃の自分がいまの姿をみたらなんて思うだろう」と考えると言う。それは、子どもの頃の想像を超えた自分の姿だからだ。

子供の頃、将来を夢見るとは、野球選手や電車の運転手、最近ではYoutuberなどかもしれない。それらは、子供が憧れる「すでにある」姿である。さかなクンが凄いのは、まだ世の中にない存在に憧れて、実際に自分がそんな夢のような存在になってしまったことである。

「目標を持つ」ことのほとんどは、目に見えるものを目指すパターンである。偉人伝を読んで、「あんな人になりたい」と言うのもそうだ。ロールモデルがあったわけでもなく、誰もなし得なかった存在になってしまったさかなクンという生き方は、なんと尊いものなのだろう。

本書を読むと、お母さんの存在が際立つ。さかなクンの家の食卓では毎晩のように魚料理が出ていたと思われる。それを嫌な顔一つせず、用意されていたのだ。水族館で同じ水槽に1時間以上張り付くさかなクンと一緒になって付き合う姿も描かれている。

そして、極め付けは学校の家庭訪問である。学校の先生はお母さんに

「学校の勉強もきちんとやるように家庭でもご指導していただけませんか」と言う。それに対し、さかなクンのお母さんは、

「あの子は魚が好きで、絵を描くことが大好きなんです。だからそれでいいんです」と何事もないように言う。

「子供には好きなことをさせたい」と言うのは簡単だ。一方で、子ども将来のために勉強のことや進学のことは気になる。そして、子供には学校での最低限の勉強を求めながらの、「好きなことをしなさい」と言うことが遥かに多いのではないだろうか。さかなクンのお母さん、シンプルに子どもを信じる心の持ちようがまさに宝物のような存在ではないか。

多様性というと、人との違いを受け入れることが喧伝される。それは、自分と違う他者を受け入れる姿勢を差すことが多い。しかし、さかなクンは人を受け入れる前に、人と違う自分を受け入れた。そこには当然お母さんからの絶大な受容があったことは言うまでもない。人との違いは、他者を見ることではなく、自分が自ずと向いてしまう方向をしっかり見ることから生まれるのではないだろうか。

世の中には無数の個性があるのに、それらの多くが葬り去られてきたのではないか。それは誰が悪いのでもなく、社会の仕組みのせいでもなく、僕らの意識によってお互いに個性を沈めあってきてしまったのではないか。「さかなクン」は一人しかいないが、「さかなクンのような人」が溢れる社会こそ、多様性ある社会だと思う。

2021/11/29 VOOX編集長 岩佐文夫

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